サドヤブログSADOYA Blog
【メルマガアーカイブ】「国産ワイン発祥の地・甲府」を楽しむモニターツアーが無事催行されました。(2016年12月6日配信)
- 2018年07月28日
- イベント 新酒(ヌーボー) 日本ワイン発祥の地・甲府 メルマガアーカイブス TV 真田丸 カベルネ・ソーヴィニヨン 新選組! 「国産ワイン発祥の地・甲府」を楽しむモニターツアー マスカット・ベーリーA 2016年12月 季節の商品 ロゼ ワイン スパークリングワイン ワイナリー見学 観光 ぶどう品種
私、山本が今回の最新情報をお届け致します!
毎週日曜夜のお楽しみ「真田丸」も残すところあと2回…。早く続きを観たいような、
織田有楽斎をコマとした、信繁と家康の諜報戦の間にはさまれた、
長澤まさみさん演じる「きり」、
「真田丸」と同じく三谷幸喜さんが脚本を担当した、NHKの大河ドラマ「新選組!」で「きり」と
同じように、モデルとなる人物が居りつつも、ほぼ“架空の人物”と言ってよく、そして、
時勢に多大な影響を与え続けた最強のヘタレ「滝本捨助」と「きり」の二人が私にはかぶって
見えて仕方がないのです。
以前このメルマガでも、「真田丸」が面白すぎて、
読み直しいる、と、書かせていただきましたが、その「城塞」
これまた架空の人物である、「お夏」。この「お夏」も立場は全く違うのですが、どこか「
似たような部分があるような…、イヤイヤ、この場合は「きり」が「お夏」
言うべきか…。
と、そんなことばかり考えています、“在庫番長”こと、
みなさまこんにちは…。
余談ではあるが…、と、断りを入れつつも、
「この件についてはすでに触れた…。」と、突如素に戻るという、
としましたが、無駄に長く、意味のないものとなってしまいました…。 反省しています…。
前回のメルマガで触れ、サドヤのFacebookでもご紹介させ
を楽しむモニターツアーが、12月4日に催行されました。
見学の案内を担当させていただきました!
その時に、
ドライ スパークリングとヴァン ロゼ ヌーボー ですッッ!!
その理由(ワケ)は…。
甲府へ来るまでのワイン列車の中で、
スポット、地場産業センター・
本当に今日は余談の方が長く、
※過去に配信したメールマガジンのアーカイブです。リンク先等が変更になっている場合もあります。
【メルマガアーカイブ】日本ワイン発祥の地、甲府(2016年12月3日配信)
- 2018年07月18日
- イベント 日本ワイン発祥の地・甲府 メルマガアーカイブス 「国産ワイン発祥の地・甲府」を楽しむモニターツアー 2016年12月 ワイナリー見学 観光 甲府の歴史 甲府開府500年
私、寺井が今回の最新情報をお届け致します!
既に定員に達し、完売となっているようですが、明日12月4日「
モニターツアーが催行されます。
新宿駅からワイナリーの担当者と一緒にお座敷列車に乗り込み、
甲州地鶏”等甲府市の名産品を楽しみながら、鉄路で甲府へ向かいます。
担当者が皆様をご接待致します。
甲府に到着後は、ワイナリー地下セラーの見学や、
ワイナリー直営のフレンチレストランで昼食等、
サドヤは甲府のワイナリーですので、
新宿駅からサドヤの担当者もお客様と一緒に甲府へ向かいますし、
サドヤの事です。
現在、山梨県内で葡萄栽培や、ワイン醸造の中心地は、
地域となっていますが、国産ワイン(日本ワイン)
今日は、日本ワイン黎明期について、
1872(明治5)年の10月初旬、
(現・
共同で始めました。
「山田宥教」氏は、真言密教の大応院(甲府市、広庭町 ※現・甲府市武田3丁目)
の法印(僧職)でもあった為、日本初のワイン醸造所は、
考えられています。
汲んでい
当時、白葡萄酒は甲州種から、
纏まった量の葡萄酒を出荷した形跡が残っています。明治7年の「
山梨県では白葡萄酒4石8斗(約900L)、赤葡萄酒10石(約1,
これは山田、宅間両氏が製造した、
明治政府が打ち出した、
設立された 「県立葡萄酒醸造所」の建設が明治10年。
ワイン醸造を開始した両氏はまさに、
日本において誰よりも早く、
糖度不足、資金難などの理由で、明治9年10月「
(山梨県勧業第一回年報)
両氏が日本初のワイン醸造を始めた甲府市、広庭町(現・甲府市、
場所です。「国産ワイン発祥の地」をこの目で確かめてみたく、
という寺院を見つける事は出来ませんでした。
事業の失敗により多額の借財を負ってしまった山田氏は、
私が調べた限りでは、はっきりとした「国産ワイン発祥の地」
明治時代の古地図でもあれば、
正確な場所が解らないのは、寂しいようでもありますし、
※2018年5月に、やまなし観光推進機構専務理事、仲田道弘氏(大学卒業後、山梨県庁入庁。長年に
亘り行政マンとしてワイン産業の振興に携わる。)が刊行した「日本ワイン誕生考」の中で、
「大応院」とは「大翁院」の誤りであり、古地図から「大翁院」の場所を特定したとの記述があります。
武田通りを武田神社方面に北上し、武田二丁目の交差点を右折、六角地蔵堂奥の墓地周辺が
「大翁院」跡地だと思われます。
※過去に配信したメールマガジンのアーカイブです。リンク先等が変更になっている場合もあります。